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シリーズ:ユネスコエコパークで活躍する北杜のプロフェッショナル

 日本で唯一、ひとつの自治体に2つのユネスコエコパーク登録地がある北杜市。
 ユネスコエコパークは、私たちの身近な生活に溶け込んでいます。
 自然や生物多様性、伝統文化を保護するとともに、次世代へと継承するため、様々な取り組みが広がっています。
 そんな、北杜のプロフェッショナルをシリーズでご紹介します。

 Vol.2
 NPO法人茅ヶ岳歴史文化研究所
 佐野 隆さん

NPO法人茅ヶ岳歴史文化研究所での活動を紹介してください

 茅ヶ岳歴史文化研究所は、合併前の旧明野村郷土研究会の皆さんが平成15年に設立した組織です。国県市の指定文化財は行政が関与して保存・継承されますが、路傍の石造物など地域の名もない文化財は合併とともに忘れられ、やがて消えていってしまうのではないかと心配した郷土研究会の皆さんが何とかしたいと思い、法人を設立して事業収益をあげたり寄付金を募ったりして、自分たちの手で地域の文化財を守りたいと思ったのがきっかけでした。その後、北杜市から遺跡の発掘調査支援業務や史跡の管理業務などの委託を受けるなどしてわずかでも収益を得て、それを地域の文化財の保存・活用に還元する活動をしています。

ユネスコエコパークにまつわる歴史を紹介していただけるそうですね

 北杜市民のみなさんにぜひ知ってもらいたいのは、今から600年ほど前、中世の修験道にまつわる歴史です。秩父山地の主峰「金峰山」は、なぜ「きんぷさん」と名づけられたのか、南アルプスの鳳凰三山には、地蔵岳、観音岳、薬師岳という具合に仏様の名前がついていますがなぜなのか。これらは甲斐国の中世修験道の歴史と関係しています。甲武信と南アルプス、ふたつのユネスコエコパーク(生物圏保存地域)を有する北杜市ならではの歴史でもあります。

 中世修験道を調べるきかっけになったのは、平成10年に現明野町小笠原で発掘調査した「深山田遺跡(みやまだいせき)」です。水田のほ場整備事業に先立ち発掘したところ、宗教的な施設と仏具が出土して、通常の中世集落ではなく寺院跡と門前町のような遺跡であることが分かりました。遺跡が形成されたのは13世紀の鎌倉時代から17世紀初頭の江戸時代初め頃です。出土した仏具は、六器と言われる青銅のお椀で、真言宗、天台宗の密教系寺院で護摩を焚く際に使う道具です。
 遺跡のすぐ隣には真言宗福性院というお寺が現在もあります。深山田遺跡は福性院の古い姿かと思って調べてみると、確かに室町時代から江戸時代にかけての福性院に関係する遺構もあるのですが、それだけではありませんでした。ちょっと調べると明野町小笠原にある福性院は、甲府市御岳にある金桜神社と深いかかわりがある寺院であることが分かりました。神仏習合が一般的であった江戸時代の金桜神社は、上之坊弥勒寺(かみのぼうみろくじ)という寺院が管理していました。弥勒寺の僧侶が隠居すると福性院で余生を過ごしていたことがわかりました。福性院は金桜神社、つまり御岳信仰とも深い関係がある寺院であったのです。
 金桜神社というと、現在は甲府市御岳の金桜神社がよく知られていますね。ですが金桜神社は他にもあるのです。ひとつは山梨市万力にある大宮権現で別名金桜神社と呼ばれています。もうひとつが旧牧丘町杣口にある金桜神社です。
 金桜神社がなぜ3ヶ所もあるのか。実はこれらの金桜神社は中世の修験者たちが御岳すなわち金峰山に入山修行するときに通る修行道の入り口にあたる場所にあります。中世の修験者たちは3つのルートから金峰山に入山して修行したらしいのです。

深山田遺跡

修験者が歩く道ですか?

 江戸時代に御岳(金峰山)参詣する民衆は川筋に沿った歩きやすい登山道を登っていました。現在の登山道もこうした谷筋をたどることが一般的です。ですが修験者たちは峰から峰へと尾根筋をたどって入山し、修行していました。3ヶ所の金桜神社は尾根筋ルートの入り口に位置しています。中世修験者の修行の基地、ベースキャンプのような施設であったわけです。
 修行とはいえ長期間、高山に入って過ごすわけですから、水、食料を供給し、修行ルートや行場を案内する世話役が必要です。現代風にいうと山岳ガイドですね。こうした人たちを「先達(せんだつ)」といいます。先達たちが所属し、各地から修行に来る修験者たちを案内するビジターセンター、それが金桜神社であったわけです。

深山田遺跡出土の六器

なぜ金峰山が修験者たちの修行の場になったのでしょうか?

 鎌倉時代の終わりころ、後醍醐天皇が鎌倉幕府を討幕するために挙兵し、やがて足利尊氏や新田義貞の協力を得て執権北条氏を滅亡に追い込みます。そこまではよかったのですが、その後、後醍醐天皇は足利尊氏と対立し、吉野(現在の奈良県吉野町あたり)に立てこもります。山深い吉野は天然の要害でもありました。京都では足利尊氏が新天皇を擁立し、皇統が京都と吉野の南北に分かれる南北朝時代となりました。
 吉野は平安時代以来の霊山熊野三山や高野山に近く、修験道発祥の地、修験道の拠点でした。そこに後醍醐天皇が立てこもったことで、吉野は南北朝それぞれの勢力が激突する戦場になってしまいました。修験者たちは修行ができなくなり、やむなく修行に適した場所を探して地方に修行の場をつくります。霊峰富士山をはじめ、山に囲まれた甲斐国は修行の場に適していたのでしょうね。江戸時代後半に編纂された『甲斐国志』という地誌に「昔、吉野に皇居があったとき全国の山伏が甲斐国に集って修行した」と書かれています。甲斐国が吉野に代わる修行の場になったらしいのです。
 甲斐国は富士山、秩父山地、南アルプスといった風光明媚な高山に囲まれています。富士山は古代から富士山、不二山などと呼ばれた日本国の霊峰ですから、やたらに名称を変えるわけにはいきません。一方、秩父の主峰金峰山は甲斐国の水田地帯を潤す大事な塩川と笛吹川の水源で、平安時代の頃から水源神、農業神として信仰を集めていました。そうした山の性格にも目をつけて、修験者たちが金峰山を「金峰山」と呼ぶようになったようです。現在の金峰山が平安時代にどのように呼ばれていたかは分かりませんが、北杜市須玉町比志の神部神社には、修験道の本尊である蔵王権現が描かれた鏡が奉納されていますから、南北朝以前から金峰山が修験道と関係していた可能性があります。

「金峰山」の名前の起こりは?

 修験道の本拠地、吉野の信仰の中心は大峯山(おおみねさん)、別名「金峯山(きんぷせん)」といいます。秩父の主峰金峰山の名称は吉野の「金峯山」に由来すると思われます。吉野の金峯山には修験道の本尊、金剛蔵王権現が祀られています。仏教には釈迦の入滅から56億7千万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現して、民衆を救ってくれるという信仰があります。弥勒菩薩が現れたときに黄金を敷き詰めてお迎えするため、金峯山には黄金が蓄えてあって、蔵王権現が黄金を守っているといいます。秩父の金峰山は、吉野に代わる行場を甲斐国に整備したとき、金峯山になぞらえて「きんぷさん」と呼ばれるようになったと考えられます。ちなみに金峰山という山名は熊本県熊本市にもあり、こちらは「きんぽうざん」と呼ばれ、蔵王権現が祀られています。
 吉野というと桜の名所でもありますね。吉野では桜をご神木として大事にしています。「金」と「桜」をならべると「金桜」となります。金桜神社は吉野大峯山の修験道の信仰をあらわした名称なのです。

なるほど、金峰山と金桜神社の由来が分かりました。修験道についても教えてください。

 奈良時代以降、東大寺とか由緒ある寺では僧侶が修行していますが、僧侶たちの多くは貴族の門弟、お金と教養のある人たちです。当時の仏教は葬式ではなく、ひたすら仏教の経典を研究し学ぶところで、奈良や京都の都を守り、天皇家や大貴族たちの繁栄を祈る役割を果たしていました。空海や最澄が密教という新しいスタイルの仏教を中国から持ち込んできて、より現世利益的な性格の強い仏教に変わっていきますが、修験者たちは元々、仏教を学んでいる僧侶たちの身の回りの世話をする身分の低い人達でした。
 「門前の小僧習わぬ経を読む」といいますが、毎日、学僧たちの世話をしているうちに経典を覚えたり仏教的な素養を身につけて、自分たちも救われたいと願うようになります。そこで仏教や神道、あるいは在来のアニミズム的な信仰を全部取り込んで修験道という新しい宗派と教義をつくっていったようです。東大寺に「お水取り」という宗教行事があります。二月堂で大松明(おおたいまつ)を焚いて、その大松明を欄干にゴロゴロと転がして火の粉がバァーと振り落ち、その火の粉を浴びると1年無病息災で過ごせるという、ちょっとした観光イベントにもなっています。あの時に松明をもったり、僧侶たちのサポートをしている人たちをよく見るとみんな修験者なんです。僧侶たちはお水取りの間、お経を読んで祈祷していますが、松明をもって飛び歩くのは修験者なんです。元々はそういう人たちなんです。
 その人たちが大きな寺院から独立して修験道という独立した流派を作って吉野に修行の場をつくっていきます。世界遺産になった吉野大峯山から熊野にかけての奥駈道(おくがけみち)は修行の一番大事な舞台であったわけですね。修験者たちは、山に入って滝に打たれて身を清め、決められた行場で仏像などにお参りするなどします。修験道の独特の教義ですが「即身成仏」という、疑似的に死んで生まれ変わるという修行もします。覗きの行とか胎内くぐりといった行です。こうして山中で修行し即身成仏して法力、神通力を身につけて、その力をもって自らと民衆を救う。それが修験道です。
 修験者が神通力を身につけるためには、春から秋まで修行する場所が必要です。さすがに冬山に入ると凍死してしまうので、冬は里に下りて村々を回って加持祈禱しながらお布施をもらって、次の年の修行に備えます。

中世修験道概念図

なるほど。甲斐国ではどのような修行をしていたのでしょうか?

 江戸時代まで南北朝頃のできごとが伝承されていたらしく、さきほど紹介した『甲斐国志』に中世修験道のことが書き留められています。
 それによると、富士山の山開きは4月14日、金峰山は6月15日。そして鳳凰三山には8月・9月の前に入山してはいけないとあります。
 修験道の開祖は、役行者(えんのぎょうじゃ)という伝説上の人物です。その役行者が富士山を開山したと伝えられています。甲州市の大善寺には「藤切り祭」という祭礼がありますが、これは役行者が金峰山で大蛇を退治した故事に由来するとされますが、富士山の開山伝承を表現したものとも考えられます。今は廃れてしまいましたが甲府市中道町の円楽寺にも「真木伐祭」という類似した祭礼がありました。円楽寺には日本最古の役行者木像が保存されています。これらの祭りが毎年の富士山の山開き行事であり、修験者たちが富士山で春の峯入行を行っていたことを示しています。
 『甲斐国志』には6月15日が金峰山の峯入行の初日とあります。旧暦6月ですから夏の峯入行が秩父山地で行われたことになります。6月15日は真言宗の開祖、空海の命日でもあります。修験道が多分に真言宗の影響を受けていたことがわかります。峯入行の初日には御岳、万力、杣口の3ヶ所の金桜神社で山開きの祭をして、3つのルートから金峰山へと峯入行に入っていったのでしょう。ルートが3つもあるのは、真言宗系、天台宗系といった修験道宗派の違いを反映している可能性があります。
 山梨市万力の金桜神社は別名「大宮権現」とも「五所権現」とも呼ばれます。権現というのは仏が民衆を救うためにこの世に現れた仮の姿という意味です。「五所」は熊野本宮、熊野新宮、熊野那智山、箱根、白山といった五柱の権現のことで、いずれも修験者とかかわりの深い神々です。『甲斐国志』に書かれた、全国の山伏が甲斐に集って修行したことを示しています。
 興味深いのは「五所権現」あるいは「五社権現」、「五社神社」と呼ばれる神社が大善寺と円楽寺、さらに福性院の近くにあることです。「五社」「五所」の権現の組み合わせは若干違っていて、走湯権現であったり伊豆権現であったりしますが、みな修験者と関係した神々を祀っています。このことは富士山と金峰山が南北朝期の修験者たちによって結び付けられていたことを示しています。
 『甲斐国志』には鳳凰三山には8月と9月の前に入山してはならないと書かれていました。もし6月、7月に入山すると神の怒りに触れて「疾風暴雨」と「寒気」によって秋の農作物の実りに大きな被害が生じる、とまで書かれています。つまり鳳凰三山は秋の峯入行の場であったということです。
 話が難しくなってきましたね。最初の深山田遺跡に話を戻しましょう。茅ヶ岳の西麓にある深山田遺跡は、金峰山で夏の峯入行をした修験者たちが下山し、8月から9月に秋の峯入り行のために鳳凰三山へと移動する際の中継地と考えられます。御岳の金桜神社とつながりが深かった福性院は、もとは茅ヶ岳の中腹「寺ヶ窪」にあったといいます。今の深田久弥公園がある辺りです。福性院もまた峯入行を行う修験者たちを世話する先達たちの寺院であったようです。
 現在の福性院のわきに五社神社があります。五社神社には戦国時代末に奉納された「御正体(みしょうたい)」という木製で円形の、樽の蓋のようなご本尊5枚が残されています。その御正体には、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智山、白山権現、箱根権現の5柱の権現が描かれています。万力の金桜神社や大善寺近くの五社権現と共通する権現の組み合わせです。こうして調べてみると、深山田遺跡は修験者たちと関わりが深い宗教施設の痕跡であった可能性が浮かび上がります。
 最後に鳳凰三山について、お話したいと思います。鳳凰三山には地蔵岳、観音岳、薬師岳と菩薩名が山名となっている山があります。これも中世修験者たちの活動の痕跡と考えられます。ちなみに富士山北側の御坂山地にも釈迦ヶ岳という山があります。鳳凰三山の周辺にも峯入行の拠点があります。「穂見神社(ほみじんじゃ)」です。
 明野町小笠原の福性院にある五社神社から地蔵岳のオベリスクを見通した線上に、韮崎市穴山町の「稲倉穂見神社」があります。小笠原には「五社神社と稲倉穂見神社は夫婦神である」と伝わっています。二ヶ所の神社が深くつながっていることを伝えています。深山田遺跡を出発した修験者たちは稲倉穂見神社に詣でて七里岩を越え、釜無川へと下って武川町柳沢から石空川をさかのぼります。石空川上流には、鳳凰山権現を祀った小さな石祠が今でも残されています。そこから石空川渓谷を遡ると精進ヶ滝に至ります。滝に打たれて身を清めた修験者たちは鳳凰三山で秋の峯入行を行いました。薬師岳から辻山、千頭星山、甘利山、旭山を経由して里へ下りると、そこには苗敷山穂見神社があります。薬師岳から南アルプスの稜線をさらに南へ縦走して櫛形山を経由して里へ下ると高尾穂見神社があります。これらの穂見神社は金桜神社がそうであったように修験者たちを世話する先達たちの活動基地であったと考えられます。山梨市万力の大宮権現(金桜神社)の近くには、鳳凰社が祀られています。金峰山と鳳凰三山が修験者たちによってつなぎ合わされていた名残です。

むずかしくも興味深い修験道の歴史でした。最後にユネスコエコパークの意義について、どう思われますか?

 ずいぶんと長くお話してしまいましたが、甲斐国の修験者たちのその後を紹介して終わりにします。
 後醍醐天皇が吉野に立てこもってから60年後に皇統が一本化されて、南北朝の混乱が収まります。修験者たちはようやく吉野で修行できるようになりました。その結果、吉野の代替であった甲斐国の行場は廃れてしまいました。各地から峯入行に集った修験者たちをガイドしていた先達や寺院、神社は経営が成り立たなくなり、変質していきます。明野町の福性院は茅ヶ岳中腹から人里近くの現在地へ移転して、里の人びとを対象とした宗教活動を展開し、やがて上之坊弥勒寺の隠居寺となっていきます。御岳の金桜神社は水神、農業神としての金峰山信仰の原点に戻り、江戸時代へとつづく御岳信仰を広めていったと考えられます。富士山は、富士の御師の活躍により富士講が組織されて江戸時代には信仰のための登山が盛んになりました。一方、鳳凰山の信仰は廃れて、地元に僅かに痕跡が残る程度になったようです。いつしか富士山、金峰山、鳳凰三山のつながりも忘れられてしまいました。それでも、南北朝期の修験者たちの活動は江戸時代後半まで伝承されて『甲斐国志』に記録され、金桜神社、穂見神社、五社権現の神社はもとより金峰山、地蔵岳、観音岳、薬師岳、釈迦ヶ岳といった山名に足跡を留めています。
 
 ユネスコエコパークは、生物多様性の保護と地域の人たちの活動を両立させ持続可能な経済活動を進めようとする仕組みです。そこには、自然と人を対立項として捉えたうえで、科学的知識にもとづいて両立させようとするヨーロッパ的な発想が感じられます。
 そもそも修験者たちは、なぜ深山にわけ入り、即身成仏しようと考えたのでしょうか。そこには、山は他界であり、死者の世界、人が踏み入れてはならない神々の世界であるという信仰、おそらくは仏教伝来以前から日本列島に根づいていた古いアニミズム的な信仰があったからではないかと思います。山は、日本人の精神性を形づくる基層のひとつになっていると思います。科学知識にもとづく生物多様性や環境の保護はもちろん大切なことですが、南アルプスと甲武信の両ユネスコエコパークに刻まれた修験者たちの歴史を通じて、私たちと山のつながりを再認識し、風土に根ざしたアニミズム的発想から山と自然への畏怖と敬意を感じることが、等身大の環境保護、新しい生活様式の創造につながるように思います。

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